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「認知症を理解したつもり」だった専門医の反省
認知症研究の第一人者が認知症になり、身をもって知ったことがある。医師の長谷川和夫氏は「認知症を発症しても突然、人が変わるわけではありません。『何もわからなくなってしまった人間』として、一括りにしないでいただきたい。一人の人間としてじっくり向き合ってほしいと思います」という――。
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※本稿は、長谷川和夫・猪熊律子『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医が、日本人に伝えたい遺言』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■認知症で突然、人が変わるわけではない
ボクは認知症の臨床や研究を半世紀にわたって続けてきました。でも、自分が認知症になって初めてわかったことが、いくつもあります。まず何よりもいいたいのは、これは自分の経験からもはっきりしていますが、「連続している」ということです。
人間は、生まれたときからずっと連続して生きているわけですから、認知症になったからといって突然、人が変わるわけではありません。昨日まで生きてきた続きの自分がそこにいます。
それから、認知症は「固定されたものではない」ということです。普通のときとの連続性があります。ボクの場合、朝起きたときが、いちばん調子がよい。それがだいたい、午後1時ごろまで続きます。
午後1時を過ぎると、自分がどこにいるのか、何をしているのか、わからなくなってくる。だんだん疲れてきて、負荷がかかってくるわけです。それで、とんでもないことが起こったりします。
夕方から夜にかけては疲れているけれども、夜は食べることやお風呂に入ること、眠ることなど、決まっていることが多いから、何とかこなせます。そして眠って、翌日の朝になると、元どおり、頭がすっきりしている。■良くなったり悪くなったりの「グラデーション」
そういうことが、自分が認知症になって初めて身をもってわかってきました。認知症は固定したものではない。変動するのです。調子のよいときもあるし、そうでないときもある。調子のよいときは、いろいろな話も、相談ごとなどもできます。
もちろん、人によって認知症のタイプも症状の現れ方もいろいろで、全部が全部、ボクのようではないかもしれません。しかし、専門医であるボク自身、認知症はなったらそれはもう変わらない、不変的なものだと思っていました。これほどよくなったり、悪くなったりというグラデーションがあるとは、考えてもみなかった。
だから、認知症といってもいろいろで、ボクのようなケースもあるということを、そして、いったんなってしまったら終わりではないということを、みなさんにぜひ知ってもらえたらと思います。
固定したものではないわけですから、ひとたび認知症になったら「もうだめだ、終わりだ」などと思わないでほしいし、周囲も、「何もわからなくなってしまった人間」として、一括りにしないでいただきたいのです。
■「ボクたちを置いてきぼりにしないでほしい」
認知症への理解はかなり進んできましたが、それでも、認知症と診断された人は「あちら側の人間」として扱われていると思うことがあります。こちら側の人間だと思っている人たちは、あちら側の人間はまともに話ができないとか、何をいってもわからないなどといったりします。
認知症の人の前で、平気でそうしたことを口にし、人格を傷つけるようなことが話されている場合もあります。
でも、それは間違いです。話していることは認知症の人にも聞こえているし、悪口をいわれたり、ばかにされたりしたときの嫌な思いや感情は深く残ります。だから、話をするときには注意を払ってほしい。認知症の人が何もいわないのは、必ずしもわかっていないからではないのです。
存在を無視されたり、軽く扱われたりしたときの悲しみや切なさは、誰もが大人になる過程で、そして大人になってからも、職場や家庭で多かれ少なかれ体験していることでしょう。そうしたつらい体験がもたらす苦痛や悲しみは、認知症であろうとなかろうと、同じです。
何かを決めるときに、ボクたち抜きに物事を決めないでほしい。ボクたちを置いてきぼりにしないでほしいと思います。1/3ページ