介護・医療関連ニュース

「かってきたよ゜」父のメールに、認知症介護の兆しが見えた

多くの中高年が直面する「親の介護」問題。老人ホームへの入居に抵抗を持つ人も多く、「親の面倒は子どもが見るべき」と親族一同考えがちだ。しかし、フリーライターの吉田潮氏は、著書『親の介護をしないとダメですか?』(KKベストセラーズ)にて、「私は在宅介護をしません。一切いたしません」と断言する。親孝行か、自己犠牲か。本連載では、吉田氏の介護録を追い、親の介護とどう向き合っていくべきか、語っていく。

「老化は止められない」父のボケはいつからだったか

◆父、誇り高き、長続きしない男

2019年、私の父は78歳になった。超高齢社会の日本では「まだまだ若い」と思うかもしれないが、父はこの数年、猛スピードで老けていき、年齢不相応のボケっぷりを発揮した。

現在は自分の足で立つのもおぼつかない。ヨチヨチどころかヨボヨボ。足腰が衰弱し、車椅子がなければ外出できない。排泄の失敗は日常茶飯事で、紙パンツからもダダ漏れる。しかし、残念なことに大病もなく、内臓はすこぶる元気で、よく食う。

そんな父が老人ホームデビューすることになったのは、2018年の春だ。もうそろそろ1年半が経(た)とうとしている。そこに至るまでに紆余曲折あったのだが、母の介護疲労が限界を超えたというのが最大の理由である。一応、娘としてはあの手この手で父の老化防止策を講じてきたつもりだ。

正直に言う。「老化は誰にも止められない」と。

酒もタバコも嗜(たしな)まない父が、脅威のスピードで寝たきりまっしぐらになったのだから。アンチエイジングなんてウソっぱち‼と声を大にして叫びたい。ということで、晴れて老人ホームデビューを飾った父を祝って、老化の軌跡をたどっていこう。

父は新聞記者だった。2001年に定年を迎えた後、引き続き嘱託で5年間延長して働いた。閑職の部署ではあったが、たまに記事も書いていた。性格はというと、時折、瞬間湯沸かし器のようにカッとなって怒ることもあったが、基本的には物静かな人だった。いや、それは美化した表現だな。なんというか、常に人の言葉尻をとらえてはダジャレを言う人だった。

身長は174㎝と高いほうだが、決してスポーツマンではなく、運動とは無縁。むしろ運動音痴疑惑のほうが濃厚である。学生の頃、自転車で日本一周したとは聞いているが、当時の道路事情を考えると、どこまで本当に回ったのかはわからない。

ときどき、魔が差して、ゴルフのクラブセット一式を買ったり、高級なロードレースタイプの自転車を買ったりしていたが、ほぼ使わずにホコリだらけになっていた。三日坊主どころか、買っただけで満足し、興味が終了してしまう人だった。

かといって、読書や映画にハマって蘊蓄(うんちく)を垂れるタイプでもない。大勢でワイワイ集まって酒を飲んで、という豪快な人でもなければ、何かに没頭してその道を究める職人肌でもない。趣味は旅行と写真だけ。

65歳で本格的に退職した後は、時間を持て余しているので、タウン誌の編集の仕事にも応募したようだ。ところが、面接から帰ってくるなり、「あんなところでやってられるか!」と、ぷんぷん怒っていたという。

2006年の父には、まだプライドがあったのだ。そして、なぜか「男の料理教室」へ通い始めたという。しかも2か所。ただし、母によれば、何を習ったのか聞いても答えないし、帰ってきても家で作ることはほとんどなかった。

一度だけ、料理教室から帰ってきて、生のイカをカッスカスになるまでフライパンで炒めたことがあるらしい。何の料理を習ったのか、母があれこれ聞いても答えない。結局わからなかったという。イカ一杯を無駄にしおって。

この頃は認知症ではなく、プライドがいろいろなことを邪魔していたと思われる。習った料理を再現しようとしてもできなかった。できなかったとは言いたくない。男のプライド。とにかく料理の才能もセンスも、ないことだけはわかった。

さらには、「シニアの大学」という趣味の講座にも通って、陶芸にチャレンジしていた時期がある。そのときに父が作った皿と灰皿は、私が今でも愛用しているが、どう見ても不細工な仕上がりだ。成形という概念も意気込みもない。釉薬(うわぐすり)の色がいいので気に入っているのだが、造形のセンスや才能がないこともよくわかる。このシニアの大学には楽しく通っていたようだが、一度、時間に間に合わなくて、とぼとぼと帰ってきたことがあったそうだ。

母に言わせれば、「もしかしたら、あの頃からボケ始めていたのかも……」とのこと。それ以来、父はシニアの大学に行かなくなった。これは認知症なのか、プライドなのか。どの段階から始まっていたのか、今となってはよくわからない。

次ページは:「親からの意味不明なメール」が認知症の合図?

1/2ページ