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認知症になって「わかったこと」―貴重な当事者たちの本音―【ブックレビュー】
認知症を取り巻く負のサイクル―話せない当事者、誤解する周囲
奥野修司『ゆかいな認知症 介護を「快護」に変える人』(講談社)は、「認知症とは何か?」を定義することなしに、認知症当事者の取材を12章に分けて紹介していく。
あえて定義しないのは、その必要がないほど認知症は身の回りや自分の身に起きることとして認識されているからだ。しかし、ありふれているがゆえに、私たちは認知症や当事者のことを誤解していないだろうかと、本書は読者に揺さぶりをかける。
著者には若年性認知症と診断された兄がいた。晩年は認知症が進行して言葉を発することができず、呼びかけにも答えなくなり、しだいに会いに行かなくなったという。ノンフィクション作家である著者は、当時終末期のがん患者から話を聞く機会が多くあった。その後兄が亡くなってしばらく経ってから、「晩年の兄は本当に何もわからなかったのだろうか」という疑問が湧き上がった。
「冷静に考えたら、『わからなくなった』と判断した理由が、会話できなくなったことと、呼びかけに反応しなかったことだけです。でも、それは終末期のがん患者にも似ています。つまり、僕の中にあった認知症に対する誤解と偏見が、『わからない』と判断させたのではないか。そう思ったのです」(P3)
この自分自身の気づきに著者は突き動かされ、認知症の当事者にインタビューするという試みをはじめた。2011年頃を境に、当事者たちが書いた本が出版されたり、スコットランドの先進的な取り組みがテレビで紹介されたりして、認知症を取り巻く環境は徐々に変わってきたという。
取材を進めていく内に、実名で応じてくれる当事者の数少なさに著者は直面する。そして、人の性格が十人十色であるように、当事者たちは何がわかり、何がわからないのかという線引きも様々であることを発見していく。この多様さもまた「認知症とは何か?」という定義が、本書の冒頭でなされない所以の一つだろう。「わからなくなってしまう」という恐怖―欠落と不足の違いを知る大切さ
何かがわからなくなるということは、恐怖につながりやすい。ごくごく日常的なことで考えてみよう。
卵かけご飯を作るために卵を割ったのに、それをご飯にかけるということが思いつかない(あるいは「卵を割る」ということ自体を思いつかない)としたら? ひもを結ぶ空間認識能力がなくなってうまく靴ひもが結べない、あるいは靴ひもを結ぶことの意味自体がわからないとしたら? 電車で出かけている途中に、どこに向かっているのかわからなくなってしまうとしたら?
自分がそのように「わからなくなってしまう」ことも怖いが、実際そのように「わからなくなってしまっている人」を目の前にすると、どう接すればいいのか慣れていないと戸惑ってしまい、恐怖や忌避の感情につながってしまう可能性がある。
本書を読むと、周囲の環境が認知症当事者を変え、当事者もまた環境を変えていくというやり取りの積み重ねが、そうしたネガティブな感情を退治してくれることがわかる。39歳の時にアルツハイマー型認知症と診断された男性は、ある時中学・高校の部活のOB会に誘われた。「次会う時に皆のことを忘れていたらごめん」と冗談交じりに彼が言うと、「おまえが忘れても俺たちが覚えている」と友人たちは彼に言葉を返したという。友人たちは「忘れてしまう」ということを「欠落」ではなく、補うことが可能な「不足」であると捉えたのだ。
「これから多くの人の顔を忘れてしまうかもしれません。でも、みんなが私のことを忘れないでいてくれるなら忘れたっていいじゃない、そう思ってこれから生活していこうと思えるようになりました」(P22)
やはり人間というのは、文字が示す通り、人の「間」で生きていくものなのだろう。「忘れていい」という発見を周囲が与えることで、伝達手段や意思表示など、当事者の表現はより豊かなものとなる。このように、認知症の人とのやりとりは誰との間でも多彩なものになり得ることを本書は教えてくれる。次ページは:「わかるようになる」筋道を、快く共に探っていける環境
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